Thursday, March 17, 2011

3.11

心が痛い
涙を流さない日はない
吐き出さないとおかしくなりそう


地震が発生した時は会社にいました。
いつもの地震だろう、くらいにしか思ってなかったのですが、揺れが強い。しかも長い。
さすがにデスクの下に潜り込みました。
パソコンは倒れ資料は崩れ落ち、天井が剥がれ水が漏れ、壁にヒビが入ったり剥がれたり鏡が割れていたり…
これが恐れていた宮城県沖地震か、と思いながら外を見ると、車は止まり、背の高い街灯や木が揺れて今にも倒れそう。高層ビルには窓掃除のゴンドラが見える。
余震も強く、向かいのビルが異様な動きをしていました。

近くの指定避難所(小学校)へ避難。
その頃はまだ地震の情報はなにもなく、部屋の片付けが大変だなーとしか思っていませんでした。
仕事は再開できないとのことで、帰宅できる人は帰宅の許可がでました。
徒歩で1時間位で帰れるので、地震直後から降り続く大雪の中帰宅。
地下道は通れず、近くの建物の惨状を目の当たりにし、ジワジワと恐怖感が襲ってきました。
もしかしたら家が倒壊しているかもしれない。古い家だからなー。この時の恐怖感はこんなものです。

家は特に異常はなかったものの、灯油タンクが倒れて漏れてしまい、異臭がする。
部屋は高い所にあった物がことごとく落ちていて、テレビやコンポは落下、テレビ台や棚はゆがみ、CDや本は崩れ落ち、壁にかけてた額も一部落ちていました。
残念だったのは大事にしていた絵皿が割れてしまったことぐらいでした。

停電だし、ガスは出ないし、水は出るみたいだけどいつ止まるかわからない。
不便だ。携帯の充電もできない、ガスが復旧しないとお風呂にも入れない。携帯もなぜか圏外。携帯サイトも繋がらない。こんな文句をいいながら暗闇の中ラジオを聴いていると、大変な災害が起きている事を知らされるのでした。津波です。
ラジオは気仙沼や南三陸町が壊滅的な被害を受けた事を何度も繰り返し伝えていました。
私が住んでいる区の隣、若林区荒浜に2〜300人の溺死体を発見というニュース。寒いし暗いし、その状況を想像すると怖くなったので、服を着てコートも着て、首もとにマフラーをかけて、手袋をしながら寝ました。


2日目。
早番だったので、父に車で会社まで送ってもらいました。
停電の影響で、大きな交差点以外は信号がとまってました。
片付けを済ませ、震災時いなかった従業員の皆さんの安否確認の電話をかけ続ける。
休憩室のテレビで初めて津波の被害を目の当たりにしました。
言葉を、声を、失いました。
しかも宮城県では気仙沼や南三陸町だけでなく、石巻市、仙台市、名取市、亘理町、山元町等、岩手県では大船渡市や宮古市、福島県は相馬市、南相馬市、青森県八戸市、茨城県など沿岸部がほとんどやられていました。
私が住んでいる宮城野区でも津波があったなんて知らなかったんです。
しかも本当に近く迄きていたみたいで…ショックでした。
もしかしたら友達の家も津波にさらわれているかもしれない…この時、失う恐怖を感じたのです。
パートさんのお母様と妹さんが津波の被害で亡くなったと知りました。この震災の凄惨さを現実的に感じさせた訃報でした。

石巻方面に住んでいる同僚は会社に泊まっていました。
メールで家族の無事を確認できたが、その後連絡がとれない。テレビに一瞬自宅付近が写ったが、全滅の様子で家は流されただろう、と話してくれました。
家族が無事、家は流されたけど命だけは助かったんだから…そんな言葉しかかけられませんでした。命は助かったけれど失ったものは大きい。これからどこに住めばいいんだろう。
彼女の事を思うと辛くて辛くて泣いてしまいたい気持ちになるけれど、本人はいたって冷静。会社は自家発電で明るいし暖かいし、水も出るし食料も備蓄ありだから快適ですよ。って、気丈に振る舞っていました。

テレビは私には強烈すぎる印象を与えました。津波にあった被災者の方のインタビューを観ては泣いていました。涙を流さずにはいられなかった。そして、どうしてそこまで聞くんだよ、もうやめてよ。とも思いました。

ツイッターでは、友達が励ましのツイートを何度もしてくれて、ありがたいと同時に申し訳ない気持ちになりました。
ライフラインが断たれただけで文句を言っていた自分が情けないです。
2日目は津波の恐ろしさを視覚で確認、友達や親戚の安否が気になる日になりました。


3日目。
シフト上は休みだったけれど、電気をもらいに会社へ。
安否確認の電話を少し手伝い、会社に泊まってる皆さんと話をして、少し食べ物をわけていただきました。
炊飯器とお米を持ってきてくれた人がいて、8合炊いておにぎりをつくり、出来立てをいただきました。具が入っていない塩むすびがこんなにも美味しいだなんて!
テレビはなるべく地元の情報を放送するチャンネルに、もしくは観ないようにしました。
でも新聞の記事を読んでいるだけでも涙が出てきます。

所々で電気が復旧しているとのこと。うちも復旧してるかな?と思ったけれどまだでした。
近くで石油コンビナート火災が起こっているし、復旧は最後の方かなと諦めていました。
この日、断水になりました。

この頃からメールの返事がこなかった友達の返信メールがくるようになりました。
名取市閖上(ゆりあげ)の親戚の安否が不明。本格的に心配になってきました。


4日目。
この日も会社へ電気とお湯をもらいに行く。
そろそろお風呂に入りたい。
会社でみんな洗髪しているとのこと。私も便乗する。上手く洗えなかったけどスッキリしました。
家でネットが繋がらないので、会社にてGoogleの安否確認リストで親戚を探してみる。
名前はあったけれど、これといって情報無し。メッセージを残そうとしたけど、会社のPCはセキュリティ強くてできませんでした。

帰り道、少しでも食料をと思い、餅屋さんで赤飯とおはぎを買って帰りました。
家族は地震発生から毎日スーパーに並んだり、スタンドに並んだりで、食料やガスボンベ、ガソリンの確保にまわってます。
街の様子も少し変化しました。
建物が大きく崩れているというのはないですが、屋根瓦が崩れ落ちていたり、開かないコンビニに行列ができていたり、スタンドに入るために車が車道に行列してたり、公衆電話や自動販売機にまで列ができていて、JRは開かずの間になり、歩いている人や自転車の人が多くなりました。

この日電気が復旧。電気がこんなにも暖かいなんて…全国で節電してもらっているので、せっかくついた電気だけれど、必要最低限使わないように、いつも以上に節電しました。
電気がついたけれど、家ではテレビはつけませんでした。新聞で十分。
ツイッターでもいろんな情報があがってきている。
必要な情報、そうでないもの。なんだかテレビ同様、ツイッターも疲れてきた。
体も疲れてきた。
心がモヤモヤしだしてきた。


5日目。
父の事務所として使っている部屋でシャワーを浴びれることが判明。
5日ぶりに体を洗う。水も大切なので、こまめに止めて使いました。以前は水出しっ放しだったのに。

閖上の叔父さん、叔母さんの安否が気になるので、両親が名取へ行き避難所にいる人のリストを確認してきた。
名前はなかった。
それでもいとこは病院とか、各避難所をまわって情報を集めていたそうだ。
そのなかで、叔母が津波にながされるのを見たという情報が…もしそうであるならば、遺体の確認を急いでしたほうがいいと思った。でもいとこはまだ信じて病院の情報を集めている。津波で流された遺体であれば、早く確認したほうがいいと思うのだけれど…もし安置所にいなければ、再度病院をあたればいいし。この考え方は間違っているのかな。当事者じゃないから、やはり気持ちは100%わかるわけじゃないし…そんな思いがグルグルめぐって泣きたくなりました。
いとこがYouTubeに上がっている閖上方面に津波が襲ってきている映像を教えてくれた。
津波の中継映像、初めて見た。テレビでは津波が襲った後の映像しか見ていなかったので。
最初は木や建物が波にのまれ、流されてるだけだったけれど、そのうち車が走ってる所や、屋上に避難している人たちが写っていて、津波の早さもそうだけど、人間がいる所にまで波がきていることに改めて恐怖を感じた。怖い映像だった。
いとこは一時停止したりして、叔母の車が写ってないか確認したそうだ。

本当に自分は弱い。ライフライン断絶しただけで自分はなんて不幸なんだと思った自分が恥ずかしい。まわりには家を失った人や家族を失った人もいる。それでも弱音を吐かずに頑張っている。今現在も寒くて暗い中、助けを求めている人が大勢いる。もしかしたら誰にも気付かれずに漂流している人もいるかもしれない。津波にのまれた遺体が冷たい海の中、まだ見つけられずに漂っているかもしれない。日本全国はもとより、世界各国からも救援部隊がきている。被爆の恐怖と戦いながら原発で仕事をしている人もいる。買い物ができるようにお店を開いてくれている人もいる。頑張ろう!と励ましてくれる人もいる…
考えだすときりがない。悲しいのか感謝したいのか、本当に涙がとまらなくなってきた。
一度、考えるのをやめよう。疲れてるんだ。早く寝よう。
こんな気持ちで就寝しても、余震が激しくてまた思い出してしまうのでした。


6日目。
とうとう恐れていた事が起こってしまった。
叔母の遺体を確認した、という電話がいとこからきました。
叔父はまだ不明。
いとこの気持ちを思うといたたまれないです。
家も流されているので、遺体は叔母のお姉様の家へ運ぶ、葬儀はたてこんでいるので、早くても23日になるとのことでした。
遺体の移動は明日。話を聞くと、お顔はキレイなままで、化粧もされており、頭に包帯を巻かれていたそうです。恐らく頭を打って気を失った状態で亡くなったため、水の影響はさほどでなかったのではないか、ということでした。
14日に自衛隊が発見して連れてきてくれたそうです。
いつも華やかにして、世話好きで優しい叔母さんでした。
キレイな姿で戻って来れてよかったね。見つかって本当によかった。
私の母より若いのに。孫の成長を見たかっただろうに。娘の成長も見届けたかっただろうに。
14日まで海の中にいたのかな。陸地にいたのかな。寒い思いしてたんだろうな。苦しい思いはしなかったかな。
いろんな思いが湧き出てきます。


なんとしてでも、23日までに叔父を見つけたい。


新聞に震災で亡くなった方で身元判明した方の名前が毎日載ります。
年齢が若いほど、あったであろう将来を思い泣けてきます。
何名助かった、という記事は喜ばしいけれど、その後にまだ何名不明者もいる、と考えてしまいます。
孫と会えない祖父母の記事を読みました。叔母を重ねてしまって涙が出ます。
今、私はとても情緒不安定だと思います。
何を見ても、読んでも、聞いても泣いてしまいます。息が苦しくなります。
こんなにも精神的に不安定だったのか、と自分でも驚いています。
音楽を聴く気にもなれません。本を読む気にもなれません。写真を撮るなんて気もおきません。
やる気がないのです。
少し、気持ちの整理をしたいと思います。

長々と失礼しました。読んでくれてありがとう。

7 comments:

  1. つらかったね。
    ほんとうに。
    私みたいに東京ですら逃げてしまったのは情けない。申し訳ない。
    いまはなるべく頭からっぽにして、情報は入れないようにして
    整理がついたらまたはじめればいいよ。

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  2. 書き忘れたっ
    ↑の投稿は、えいみーでした

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  3. 昌です。やっとネットが繋がったので、読みました。
    かける言葉が見つかりません・・・。ほんと役立たずでごめん。どうか気を落とさないで・・・。一緒にがんばろう!


    きのう出花の彼女とアイリとご両親がお風呂に来たよ。
    kaoもいつでも来てくれてよいからね!

    いつも明るくてしっかり者のkao、
    無事でいてくれてありがとう。

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  4. あいです。
    大丈夫?いつも明るく元気なかおちゃんだけにとても心配です。

    私は、何だか、テレビを観ても、父親が無事だと知った時も、涙が出てこなくて・・・・。
    ただただ生きるだけで精一杯です・・・・。
    周りには「親戚が亡くなった」という人も多くて、でも何だか実感が湧かないよ。

    私の家もお風呂に入れるようになったよ。
    いつでも来てね。

    今度落ち着いたら、みんなで会おうね。

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  5. >えいみーちゃん

    いろいろありがとう。
    仕事をして、いろんな人と話をして、アナログな生活をしていたら、一人でクヨクヨしているのが恥ずかしくなってきた。
    まだテレビは見たくないけど、今日、音楽を聴いてみたよ。
    WINOの暗い歌も、こんな時は癒してくれるもんだね。
    嫌味も言えるようになってきたし、そろそろ自分に戻らなきゃ。

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  6. >まさ

    ありがとう。
    せっかくブログ見に来てくれたのに、こんな内容でごめんね。
    役立たずだなんて言わないで。言葉をかけてくれるだけで嬉しいから。

    出花の彼女の家族は元気だった?
    愛里ちゃんも頑張ってるんだもん、私がこんな弱気でいられないよね。
    お風呂のお誘いありがとう。弟の所で1回入れたから、まだ大丈夫。
    どうしても気持ち悪くなったらお願いします。
    本当にありがとう。

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  7. >あいちゃん

    お父さん、無事だったんだね。よかった!
    私も最初は津波が街を全て持って行ったこと、実感が湧かなかった。
    でも、叔父と叔母の訃報をきっかけに現実的になり、ものすごく怖くなった。
    実際現場にいて目の前で救えなかったって思ってる人も大勢いると思うし、自分が何もできない事を責めてもしょうがないと思えるようになってきました。
    感情を閉じ込める必要はないけど、いつまでも悲しんでられないなぁって。

    お風呂、ありがとね。
    みんなと会ったらまだ泣きそうだな。

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